研究の萌芽は異国での「常識」が揺らぐ体験[人間行動領域 辻輝之先生]

こんにちは!

今回は、飛翔98号の記事からです。

今回紹介するのは、総合科学科 人間探究領域 人間文化授業科目群 辻輝之先生です。

辻先生は、宗教と人種・エスニック・アイデンティティの関係、民族紛争と社会統合について研究しておられます。

それではさっそく、研究内容からみていきましょう!

トリニダード・トバゴでは「常識」が何度も裏切られた

ー研究内容についてお聞かせください。
トリニダード・トバゴの地図(外務省HPより)

 まず、カリブ海の南東に位置するトリニダード・トバゴ(以下、トリニダード)という国でのフィールドワークを通して、宗教と人種・エスニック・アイデンティティの関係、民族紛争と社会統合の問題について研究をしています。南米ベネズエラの少し北に位置している2つの島からなる国です。

 また、私が博士号を取得したフロリダ国際大学のあるフロリダ州マイアミでもフィールドワークを実施して、移民が信仰を軸に、どのように社会関係資本を築いて、受入れ社会の中でコミュニティを形成しているか、更にその中で、他の宗教集団、エスニック集団とどのように共存しているかについて考察しています。

ー研究を始めたきっかけは何でしたか。

 私は、元々研究者を志していませんでした。将来は、国際機関で働くことを希望し、筑波大学の修士課程で地域研究の学位を修めた後、外務省の専門調査員制度を活用しました。

∗専門調査員制度:外務省が特定の地域や国について大学院で学んだ人を契約職員として採用して在外公館に派遣する制度。

 私が派遣されたトリニダードの日本大使館は、当時私を含めて職員が5人しかおらず、政務や経済から文化交流事業、東京からの出張者を空港に出迎えるなど、あらゆる業務を担いました。忙しかったですが、いろいろな経験をさせてもらいました。トリニダードという国は、知的好奇心が刺激される興味深い場所でした。

 日本で24歳まで生まれ育った私は、ある程度の文化的均質性があるから社会は成り立つという考えを疑いなく持っていました。トリニダードでは、私が持っていた「常識」が何度も裏切られる経験をしました。歴史的に、中国系、南アジア系(注:現在のインド亜大陸)、ポルトガル系(注:主に、ポルトガル領マデイラ島)、スペイン系(注:イベリア半島および南米大陸)、ドイツ系などの移民が共存してきたにもかかわらず、同様に多様な民族で構成された社会と比べると、暴力的な民族紛争が起こらず、比較的安定した社会を形成してきました。駐在していた3年間、常に「なぜ」「どのように」という問いが頭にありました。

 国際機関への就職の足掛かりとして外務省のお仕事をしましたが、これらの問いについて、専門的に研究したいという思いが強くなり、大学院進学を決めました。進学したフロリダ国際大学で指導を頂いたアレックス・ステピック(注:現在は、ポートランド州立大学)が移民研究の権威で、マイアミにいるハイチ移民の社会関係資本、アイデンティティやコミュニティ形成と彼らの宗教との関係について研究されていたので、その影響から、信仰に焦点を当てた移民研究に強い関心を持つようになりました。

宗教間の関係が社会に与える影響を研究している

ー宗教について研究する中で特に興味深いと感じる点は何ですか。

 以前には、他の多くの人たちと同様、宗教というのは、それぞれ明確な境界を有しており、異なる宗教が出会うと争いが起こる、という先入観を持っていました。トリニダードでは、その先入観やステレオタイプが繰り返し否定される経験をしました。現在、このことを書籍にまとめようと努力しています。例えば、私が長年フィールドワークを行っているあるカトリック教会には、褐色の肌のマリア像があり、それをトリニダードの二大宗教集団であるカトリック教徒とヒンドゥー教徒がともに信仰の対象にしてきました。毎年巡礼が行われるのですが、カトリック教徒とヒンドゥー教徒の巡礼日が分けられていて、現在では大きな争いもなく信仰が維持されています。そして、ヒンドゥー教徒の巡礼者を迎えるために、カトリック教会の人たちが何日もかけて準備します。ここまでドラマチックなものでなくても、トリニダードには、宗教間の平和的な共存の事例が多く存在し、日常生活の中で信仰が異なる人同士が妥協、融和しています。異なることを前提として受け入れたうえで共存している。異宗教間の争いがあるとすれば、それを引き起こしているものとは何か。私自身の考え方も変わっていきました。むしろ、異なる宗教間の関係がその他の原因で起こる社会紛争を抑制するというアプローチが必要なのではないか。そういう着想から研究を進めています。

トリニダード・カーニバル前夜祭での一枚(2016)

 宗教が興味深いのは、その二面性にもあると思います。歴史的に宗教は、ある個人や集団に対する差別や迫害を引き起こし、それを正当化する「根拠」になってきました。奴隷制社会を例に挙げると、非人道的な強制連行、プランテーションでの強制労働を正当化し、支える思想の一つとしてキリスト教があったわけですね。しかし、同時に、その差別や迫害の中で、人間として尊厳を持ち、力強く生き続けることを可能にした思想としてのキリスト教という側面もある。宗教だけではなく、人間の社会的、文化的な営みには、常に矛盾する二面性というものがある。宗教を紛争や迫害の原因とする一方的な見方に対して懐疑的であるべきだと思います。宗教の教義や思想を深く掘り下げている宗教学者から見れば、私は宗教そのものについての知識が限定的かもしれませんが、宗教や異なる宗教間の関係が、宗教とは無関係とされる様々な社会事象に与える影響に関しては、自分なりに多くを学んできましたし、今後もこういった視点で研究を続けていきたいと思っています。

ー違う宗教が存在する社会において、どういった要素が共存又は、対立しているといった結果に繋がっているのですか。

 お話ししたように、この問い自体が私の研究テーマですので、簡単に答えられないですね。研究者の間で定説となっているのが、選挙政治です。トリニダードでも、宗教がそれをアイデンティティ形成の柱とする集団間の争いを起こす重要な背景になっていることは間違いありません。例えば、ヒンドゥー教徒である南アジア系国民を母体にしている政党と、カトリックをはじめ、キリスト教を信じている人が多いアフリカ系の人たちを支持母体にしている政党が歴史的に2大政党としてあって、5年ごとに行われる選挙がエスニック集団間の関係が緊張する機会になっています。ところが、スポーツの試合みたいに、選挙が終わると、その結果を受け入れ、高まった緊張が緩和される。それがどのようにして可能になるのか。それが私の博士論文のきっかけとなった問いです。

 エスニシティと政治の結びつきによる社会紛争を抑制しているのは、異なる宗教の関係なのではないか。政治エリート間では紛争が継続するのですが、大衆は、強い宗教的アイデンティティを持っていても、異なる宗教間、例えば、カトリック教徒とヒンドゥー教徒が日常的に、頻繁にやり取りをして生活しており、その関係が紛争抑制のメカニズムを形成している。博士論文では、多くの事例を挙げて、この仮説を検証しました。その一つの事例として、先ほどお話しした、100年以上続くマリア像の共有、分有信仰があるわけです。現在の研究も、方向としては同じです。

「問い」をたてることを大事にしてほしい

ー最後に総科生にひとことお願いします。

 第一に、答えよりも、まず「問い」そのものが重要であるということ。そして、問うことの難しさです。最近、課題解決の重要さが繰り返し強調されます。しかし、課題を解決する前に、課題を見つける力が必要だということです。つまり、問う力、課題発見能力です。解決する価値のある問いを立てることは、簡単なことではなく、また、勇気のいることです。あらかじめ準備されている問いに答えるという訓練は、日本人の場合、受験勉強も含めて、幼いことから継続して行っています。その結果、課題解決能力に長けた人が多いと思っています。一方で、問いそのものの重要性と、オリジナリティのある問いを立てることの難しさを理解している人はそんなに多くない。学生には、既成の問いに答えを出すことではなく、答えるに値する問いを立てることを意識して学んで欲しいと思います。もう一つは、自分で自分を評価して、その能力を判断しないことです。

 私は、博士論文を執筆している時に、自分の議論に自信が持てず、書いたものを消すということを繰り返し、葛藤していました。その時に指導教員から言われたのですが、「自分で自分のことを判断できるのであれば、もう学びは必要ない」。自分としてベストを尽くしたら、成果に対する評価は、周りの人にゆだねること。そのために教員だけではなく、一緒に学んでいる仲間がいるのです。考えたことを自分の中で何度も検討してから言語化する。そのこと自体重要なことですが、結果、自分で自分の考えを否定し、表明、共有しない学生が多いような印象を受けます。まだ荒削りの状態でもいいので、思い切って自分の考えを周りと共有して欲しいと思います。周りから受ける批判や問いが、あなたの考えを具体化すると同時に、思い切って共有したあなたの考えが他人の着想に繋がります。